大阪地方裁判所 平成6年(ワ)9161号 判決 1998年5月20日
原告
甲野花子
右訴訟代理人弁護士
冠木克彦
同
石川寛俊
被告
学校法人○○医科大学
右代表者理事
A
被告
B
右両名訴訟代理人弁護士
小林淑人
右訴訟復代理人弁護士
外山弘
主文
一 被告らは、原告に対し、各自金二〇万円及びこれに対する平成五年一一月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
二 原告の被告らに対するその余の請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを三〇分し、その二九を原告の負担とし、その余を被告らの負担とする。
四 この判決は、一項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一 請求
被告らは、原告に対し、各自一五〇〇万円及びこれに対する平成五年一一月二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 事案の要旨
本件は、原告が、「被告学校法人○○医科大学(以下「被告○○医大」という。)の経営する○○医科大学附属病院(以下「被告病院」という。)の救命救急センター(以下「救急センター」という。)に勤務する医師であった被告B(以下「被告B」という。)は、平成五年一一月二日、腎臓移植を行う医療機関側の医師らに指示して、移植に使用させる目的で、救急センターに入院中死亡した原告の娘である乙川春子(以下「春子」という。)の腎臓及び血管組織を、春子の家族の承諾を得ないで、摘出させた。また、被告Bは、春子の腎臓を移植のため提供する方針を早期に決定し、その後は春子に対する救命のための治療を放棄し、かつ、腎臓移植目的のために、春子に対し、カテーテルを挿入したり、その延命を妨げる積極的措置を行った。」旨主張し、被告Bに対しては、民法七〇九条、七一〇条及び七一一条に基づき、被告○○医大に対しては、民法七〇九条、七一〇条、七一一条及び七一五条に基づき、損害(原告がその相続分に従って相続した春子の被った損害及び原告固有の損害)の賠償を請求した事案である(附帯請求は遅延損害金の請求である。)。
二 争いのない事実等
1 当事者等
(一) 春子(昭和三九年九月一一日生)は、平成四年六月一日、乙川夏夫(昭和三一年一一月六日生、以下「夏夫」という。)と婚姻し、平成五年一一月二日死亡した。春子には子はいない。春子の相続人は、夫である夏夫、母である原告(昭和一一年一二月一日生)及び父である甲野太郎(昭和一〇年三月一四日生)の三名である。
(甲一の1ないし3)
(二) 春子は、高校卒業以来、大阪市鶴見区に所在する△△病院で看護婦として勤務していた。また、原告も看護婦である。
(甲二〇、証人夏夫、原告本人)
(三) 被告○○医大は、医科大学その他の教育施設を設置することを目的とする学校法人であり、被告病院を設置し経営している(争いがない。)。
(四) 被告Bは、昭和五四年四月から平成六年八月ころまでの間、被告病院の救急センターに医師(専門は救急医学)として勤務し、その間の平成五年二月、被告○○医大(救急センター)助教授に就任した。平成五年当時、救急センターでは、約六人の医師により編成される四つの班が、班ごとに、その所属医師全員が一人の患者に対する治療に当たる治療体制が採られていた。被告Bは、第一班のリーダーであり、脳神経外科を専門とするC医師(以下「C」という。)がサブリーダーであった。
〔証人C、証人D(以下「D」という。)、被告B本人〕
(五) 平成五年一〇月までに、救急センターにおいて死亡(心臓死)し、腎臓を移植のために提供した患者は、一二名前後いた。救急センターにおける腎臓移植のための事務の責任者は被告Bであった。被告Bは、移植のために腎臓を提供することが可能な患者(以下「ドナー」という。)がいる場合、財団法人大阪腎臓バンク(以下「大阪腎臓バンク」という。)所属の移植コーディネーターに連絡していた。ドナーからの腎臓摘出は、右コーディネーターの仲介で、腎臓移植を希望し、提供される腎臓と適合性を有する患者(以下「レシピエント」という。)のために移植手術をする医療機関側の派遣してくる医師チームが、救急センターの手術室で行うことになっていた。
(甲七の1ないし5、八の1ないし6、被告B本人、弁論の全趣旨)
2 春子が救急センターに入院し、手術を受けるに至った経緯
(一) 春子は、平成五年一〇月二五日(以下、月日はいずれも平成五年である。)、△△病院で勤務中に激しい頭痛に襲われたため、△△病院で夜間診療を行っていた救急センター所属の医師によって、コンピュータ断層撮影法による検査(以下「CT検査」という。)を受け、その結果、脳内血腫があることが判明した。そこで、右医師は、救急センターで当直勤務をしていたCと相談の上、春子を救急センターに入院させることとした。春子は、同日午後一〇時三二分、救急車で運ばれ、救急センターに入院した。
(二) 春子は、入院当初は意識がはっきりしていたが、午後一一時五〇分ころ、突然全身が痙攣すると同時に意識レベルが低下して昏睡状態に陥り、対光反射もなくなった。C及び救急センター所属のE医師は、春子に対し、全身管理を行い、脳浮腫剤であるバルビタール及びマンニトールを投与するとともに、緊急に、CT検査を行った結果、五センチメートルほどの大きさの脳内血腫が存すること並びに鋳型状の脳室内出血及びくも膜下出血を来して、頭の中が血だらけの状態になっていることを確認した。更に、Cらは、脳血管撮影を行った結果、前交通動脈瘤が存在することが判明したため、これが出血の原因であると診断した。
右出血を止めるためには、前交通動脈瘤の茎部をクリップする手術をすることが必要であるところ、Cらは、春子の容態が、呼吸停止があり、対光反射が存在せず、除脳硬直の姿勢をとるなどのほか、動脈瘤からの出血がなお続くなど、非常に危険な状態であったため、右手術をすることは不可能である(手術適応がない。)と判断した。
しかし、翌二六日朝には、春子の容態が、対光反射が出現し、わずかに頷くような動作が認められ、意識レベルも、全くの昏睡状態から半昏睡、あるいはそれ以上に上がるなど改善したため、Cらは、右手術を行うのが相当であると判断し、春子に付き添っていた原告及び夏夫に対し、右手術の必要性と危険性等を説明した上、原告及び夏夫から、右手術を行うことについての承諾を得た(原告において承諾書を提出した。)。
(甲二の1、2、二〇、三二、乙二、証人C、証人D、証人夏夫、原告本人)
3 春子に対する手術の施行等
(一) C及びE医師らは、一〇月二六日午前一〇時ころから午後六時過ぎころにわたって、春子に対し、開頭の上、脳内血腫を除去し、前交通動脈瘤の茎部をクリップする手術をした(この手術を以下「本件クリッピング術」という。)。なお、本件クリッピング術の際、春子に対し、血圧が下降したため新鮮凍結血漿(以下「FFP」と表記する。)、加熱人血漿タンパク(以下「PPF」と表記する。)等が投与され、また、脳室内の余分な水分を排除するために脳室ドレナージが設置された。
(甲二の1、2、証人C)
(二) Cは、本件クリッピング術後、原告及び夏夫に対し、動脈をクリッピングし、手術は成功したが、動脈がぼろぼろになってあちこちから一リットルほどの大量の出血があったと説明した(争いがない。)。
(三) Cが、春子の入院に関与し、かつ、本件クリッピング術を担当したこともあって、春子は、救急センターの第一班の担当する患者となり、Cがその主治医(救急センターでは、前記のとおり、班に所属する医師全員が一人の患者の治療に当たる治療体制が採られていたため、主治医という言葉を避けて、主務医と呼んでいた。)となった(証人C、被告B本人)。
4 本件クリッピング術後の経緯
(一) Cらは、本件クリッピング術後、春子を集中治療室(以下「ICU」と表記する。)に移し、春子に対し、通常の輸液とともに、アデノシン三リン酸(脳の代謝促進剤、以下「ATP」と表記する。)、強ミノ(肝臓の保護剤、以下「SMC」と表記する。)、アドナ(止血剤)、トランサミン(止血剤)、カルチコール(止血剤)、サヴィオゾール(代用血漿)、フルマリン(抗生物質)、マップ(加赤血球製剤)、フェノバール(抗痙攣剤)等を投与して、その全身状態の管理を行うとともに、脳浮腫剤を投与した。また、救急センターの看護婦は、春子の体温を上げるために、電気毛布を使用した。
(甲二の1、2、証人C、証人D)
(二) 春子は、本件クリッピング術後翌二七日午前二時ころまでは、呼名にも頷き、ゆっくりと離握手をし、痛みにより四肢を動かし、また、対光反射も認められた。しかし、その後、午前三時ころ昏睡状態となり、対光反射も消失し、同日午後一時ころから血圧が変動して六〇台に低下した。そのため、Cらは、春子に対し、昇圧剤として強心剤のイノバン、急性循環不全改善剤のノルアドレナリンの投与を始めたが、午後四時には、春子の瞳孔は、右が八ミリメートル、左が7.5ミリメートルで、ほとんど散大した状態となり、対光反射も消失し、深昏睡の状態となった。Cは、午後六時ころには、春子が脳死に近い状態であって、死亡することはほぼ確実であろうと判断し、救急センターの医師及び看護婦らも、春子をディー・エヌ・アール(以下「DNR」と表記する。)患者であると把握した。
(甲二の1、2、証人C、証人D)
(三) 春子は、一〇月二八日には、ICUから二人部屋であるハイ・ケア・ユニット(以下「HCU」と表記する。)に移された。春子は、同日、痛み刺激に反応がなく、対光反射もなく、深昏睡の状態であったが、瞳孔径は6.5ミリから8ミリの変化が見られた。Cは、同日、脳死判定の検査として、春子に対する聴性脳幹反応(以下「BSR」と表記する。)及び脳波の検査を依頼し、BSRについては、反応がないが、脳波は平坦でないという結果が出た。
(争いがない。)
(四)(1) 被告Bは、一〇月二八日、Cから、春子の容態を聞き、移植するために春子の腎臓の提供を受けたいと考え、Cに対し、春子の家族に対して腎臓提供することについての意向を打診して欲しい旨依頼した(甲二の1、2、証人C、被告B本人、弁論の全趣旨)。
(2) 被告Bは、一〇月二九日、依然深昏睡の状態が続いていた春子に対する二回目のBSRと脳波の検査を依頼し、BSRは反応がないが、脳波は平坦でないとの結果が出た(争いがない。)。
(3) 被告Bは、一〇月三〇日、原告及び夏夫に対し、春子の腎臓を移植のために提供することを承諾するよう申し入れ、そのころから、それまで主治医として春子を担当していたCに代わって、春子に対する医療を主として担当するようになった。原告は、翌三一日午後、救急センターに対し、春子の腎臓を移植のために提供することを承諾する旨記載のある「臓器・組織提供承諾書」と題する書面に署名して、これを提出した(この書面を以下「本件承諾書」という。)。被告Bは、原告及び夏夫に対し、春子の腎臓とは別に、春子の血管組織についても提供することを承諾するよう求めたことはなく、原告及び夏夫がこれを承諾したこともない。
(争いがない。)
(五)(1) 被告Bは、一〇月三〇日正午過ぎころ、大阪腎臓バンク所属の移植コーディネーターに対し、救急センターに腎臓提供が可能かもしれないドナーのいることを連絡した。右コーディネーターは、右情報を大阪大学医学部附属病院泌尿器科に伝え、右泌尿器科のF医師は、同日午後二時ころ大阪医科大学附属病院泌尿器科(以下「大阪医大病院」という。)に対し、同日の夕方に大阪府立病院泌尿器科(以下「府立病院」という。)に対しそれぞれ右情報を伝えた。そして、右F医師は、翌三一日午前一時四一分ころ、大阪医大病院に対し、腎臓移植に必要なドナー(春子)の血液型等の身体状況に関する資料をファクシミリで送信し、大阪医大病院は、同日午前七時三三分ころ、府立病院に対し、右資料を再送信した。
(2) 大阪医大病院は、一〇月三一日午前中にレシピエント候補を呼び出して、腎臓移植の準備に入った。また、府立病院も、同日の午前中から準備に入り、同日午後一〇時二〇分ころに、レシピエントを入院させた。
(甲七の1ないし5、八の1ないし6、被告B本人、弁論の全趣旨)
(六)(1) 春子の深昏酔の状態は一〇月二九日以降も続いており、腎臓の機能を表す主なデータはクレアチニン値であるが、一〇月三〇日の春子のクレアチニン値は、2.5であり、翌三一日のそれは2.1であった。また、三一日の春子の尿量は、午前〇時から午前三時の間が一一〇ミリリットル、午前三時から午前六時の間が一八〇ミリリットル、午前六時から午前九時の間が五〇ミリリットル、午前九時から午後〇時の間が七五〇ミリリットル、午後三時から午後六時の間が一三五ミリリットル、午後六時から午後九時の間が五ミリリットル、午後九時から翌日午前〇時の間が二一〇ミリリットルであった(なお、午後〇時から午後三時の間は、カルテの記載が漏れており、詳細は不明である。)。
(2) 被告Bは、一〇月三一日午後五時ころ、春子に対するイノバンとノルアドレナリンの投与を中止した。
(3) 春子の血圧は、一〇月三一日午後八時ころ六〇台に低下し、死亡の危険性が生じたので、被告Bは、移植に備えて腎臓に灌流液を流すために、春子の大腿部を切開して灌流液注入用のカテーテルを挿入した(このカテーテルを挿入した行為を以下「本件カテーテル挿入行為」という。)。すなわち、心停止後、直ちに灌流液を流すことにより、腎臓が温阻血により悪化するのを防ぐことを目的として、心停止前に、灌流液注入用カテーテルを挿入したものである。
(4) その後、心停止に備えて、春子は手術室に移された。腎臓移植を行う側の医師チーム(国立循環器病センター所属の医師を中心とした医師団であり、腎臓摘出を担当する「腎臓チーム」と血管組織の摘出を担当する「血管チーム」とで構成されていた。)は、春子の容態の急変に備えて、一〇月三一日深夜、救急センターで待機したが、春子の血圧はそれ以上低下せず、その容態が急変する恐れが薄らいだため、翌一一月一日午前九時三〇分右待機を解除した。春子は、その後、再びHCUに移された。
(争いがない。)
(七) 被告Bは、一一月一日午前三時一五分ころから、春子に対し、イノバンとノルアドレナリンの投与を再開した。春子の血圧は、その後、一二〇台から一四〇台に、心拍数は一〇〇前後になり、血圧の低下傾向が見られるものの、一応安定した状態が続いた。
(甲二の1、2)
(八)(1) 一一月二日午前六時二五分、当直の医師の指示により、春子に対し、五〇〇ミリリットルの輸液(ソルラクト)の点滴が行われたが、被告Bは、午前九時一五分、春子に対する点滴による輸液の量を一時間につき五ミリリットルに減量するよう指示した。また、春子の人工呼吸器の酸素濃度は、午前〇時一五分に、それまでの二八パーセントから三〇パーセントにされた。更に、被告Bは、午前一〇時、午後〇時、午後二時三〇分及び午後四時に利尿剤ラシックスを投与した。同日、春子の中心静脈圧は正常であり、また、一一月二日午前一〇時一二分の検査の結果、春子のクレアチニン値は一デシリットルにつき4.4ミリグラムであり、更に、再測定した午前一一時三一分には一デシリットルにつき4.9ミリグラムに上昇していた。
(午前一一時三一分のクレアチニン値が4.9ミリグラムであることについては、甲二の1、その余の事実は争いがない。)
(2) 春子は、一一月二日午後七時ころから、血圧低下、脈拍低下が著しくなったため、手術室に移され、午後七時五〇分、原告及び夏夫の立会いの下で、心停止による春子の死亡が確認された。春子の心停止後、直ちに灌流用カテーテルに灌流液が流され、午後八時三〇分から、腎臓チームが春子の両側の腎臓を摘出し、次いで血管チームが春子の血管組織を摘出した。
(争いがない。)
(九) 春子から摘出された腎臓は、大阪医大病院及び府立病院において、各レシピエントに移植されたが、春子から摘出された血管組織は、使用されず、国立循環器病センターにおいて凍結処理した上保存されている。
(甲二の1、七の1ないし5、八の1ないし6、乙三)
5 腎臓移植についての法規制等
(一) 春子の腎臓が摘出された当時、腎臓移植に関しては、角膜及び腎臓の移植に関する法律(以下「角膜及び腎臓移植法」という。)が適用され、その中では「医師は、腎機能障害者に腎機能を付与する目的で行われる腎臓移植術に使用するための腎臓を、死体から摘出することができる。」(三条二項)、「医師は、前項の規定による死体からの腎臓の摘出をしようとするときは、あらかじめ、その遺族の書面による承諾を受けなければならない。」(同条三項本文)と規定されていた(顕著な事実である。なお、角膜及び腎臓移植法は、臓器の移植に関する法律が平成九年一〇月一六日に施行されたことに伴い、廃止された。)。
(二) 脳死は、臓器の移植に関する法律(平成九年七月一六日法律第一〇四号)六条二項においては、「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定された」状態であると定義され、厚生省の脳死に関する研究班が昭和六〇年に発表した脳死判定基準、いわゆる竹内基準は、①深昏酔、②自発呼吸の消失、③瞳孔が四ミリメートル以上に散大し(左右同径)、固定(時間の経過によっても瞳孔径の変化ないこと。)している状態、④脳幹反射の消失(対光反射、角膜反射、毛様脊髄反射、眼球頭反射、前庭反射、咽頭反射、咳反射がいずれも消失し、自発運動、除脳硬直及びけいれんがないこと。)、⑤脳波が平坦であること(①ないし④がいずれもある場合に、三〇分間にわたり記録すること。)、⑥右①ないし⑤の条件が満たされた後、六時間経過を観察して変化がないことを内容とする〔甲二四、二五、証人M(以下「M」という。)、なお、臓器の移植に関する法律における脳死の定義は、当裁判所に顕著な事実である。〕。
(三) 日本大学医学部附属板橋病院救急救命センターに所属する林成之医師らが提唱した脳低温療法、すなわち、脳障害を有する患者に対して、体内を流れる血液を冷やすことにより、脳の温度を低下させ、脳神経細胞を保護して脳死になることを防ぐ療法は、平成五年ころまでには一部の医療機関で行われるようになり、Cも、平成五年一〇月当時、右療法があることを知っていた(甲二五、二八、三一の1、証人C、証人D、証人M)。
三 争点
1 被告Bは、春子の遺族から、春子の腎臓提供につき書面による承諾を得たか否か。
(一) 被告らの主張
(1) Cは、春子が、ほぼ脳死に近い状態であると判断し、一〇月二七日ころ、原告及び夏夫にその旨を説明し、春子がICUからHCUに転室した後の同月二八日か二九日ころ、ほとんど常時付き添っていた夏夫に対し、腎臓提供の説明をし、夏夫から、移植のために春子の腎臓を提供することにつき承諾する旨の意向を示されていた。そこで、救急センターの管理者であり、春子の医療チームのリーダーである被告Bは、同月三〇日の午前中、Cと一緒に、救急センターの面談室において、原告及び夏夫に対して、春子の病態を説明するとともに、春子の腎臓を移植のために提供する途があることを説明し、これに承諾する意思があるか否か尋ね、承諾の方向で検討するよう求めた。
(2) 原告及び夏夫は、春子の腎臓を移植のために提供することを承諾することとし、前記二4(四)(3)のとおり、原告において、救急センターに対し、本件承諾書を提出したものであるから、被告Bが、春子の遺族から、春子の腎臓提供につき書面による承諾を得たことは明らかである。
(3) そもそも医師が、患者の家族に対し、患者の腎臓を移植のために提供することについての承諾や承諾書の提出を強要しても、患者の家族から、そのような承諾や承諾書の提出を得ることは到底できないはずである。
(4) 被告Bが、本件承諾書が提出される前に大阪腎臓バンク所属の移植コーディネーターに連絡したのは、既に前日の一〇月三〇日に、Cに対し、家族の承諾の意思が伝えられていたためである。
(二) 原告の主張
(1) 臓器提供に関する承諾は、肉親の死亡という重大な事実に伴うものであるため、医療従事者としては、承諾の前提として、患者の病状について十分に説明し、かつ、提供者の家族が、提供者の死亡を受け入れることができるように、時間的余裕を与えるなど必要な環境を整えるべきである。更に、臓器提供を承諾すべき立場にある者が数名存在する場合には、これらの者が相談した上で結論を出すことができるだけの十分な時間的余裕を与えるべきである。
(2) ところが、被告Bは、春子が一〇月三一日に心停止することを予定し、前日の三〇日には、家族らの移植に対する承諾を得ていないまま、移植コーディネーターに腎臓提供者がいる旨の連絡をしていたのに、夏夫や原告に対し、春子の容態について十分な説明をせず、また、腎臓提供に関する説明をしたのは一〇月三〇日であったのに、翌日の三一日には、原告や夏夫に対し、夕方の五時までに承諾を欲しいと期限を設定し、承諾を迫ったものであって、看護婦として多忙な生活を送り、娘である春子の看病や見舞いに対する応対もしなければならなかった原告に、春子の死亡について心の準備をする機会を与えず、かつ、春子の腎臓提供について承諾するか否かを考えたり、夏夫や春子の父と相談したりする十分な時間を与えなかった。原告が、このような状況の下で本件承諾書を作成して提出したものであることに鑑みると、移植のために春子の腎臓を提供することについて、原告の書面による有効な承諾があったとはいえない。
2 被告Bは、春子の腎臓を移植のため提供させる方針を早期に決定し、自ら、あるいは他の医師らに指示して、春子に対する救命のために必要な治療を放棄したか否か。
(一) 原告の主張
(1) 春子は、本件クリッピング術を受けた後、一〇月二七日には、前記二4(二)のとおり、瞳孔散大が出現したため、被告Bは、他の救急センターの医師と共に、春子を「DNR扱い」とし、同日。翌二八日にICUを出すことを予定した。右の各取扱いは、救急センターにおいて、春子を回復不可能と判断したことを意味しているが、瞳孔散大が出現しただけで、固定していない段階で、患者を回復不可能と判断することは許されない。
(2) また、被告Bは、他の救急センターの医師と共に、Cが一〇月二八日に依頼した最初の脳死判定の検査及び被告Bが翌二九日に依頼した二度目の脳死判定の検査のいずれにおいても春子の脳波は平坦ではないという結果が出たにもかかわらず、春子を脳死状態にあると判断して、二八日、前日まで投与されていたグリセオールやマンニトールなどの脳浮腫軽減薬の投与を中止し、救命のための治療をすることを放棄した。
被告Bは、春子が移植に適するドナーとしての要件を満たしていたため、二八日に、春子の家族に対し、移植のために春子の腎臓の提供を要求する方針を決定し、春子の腎臓を移植に適した腎臓にするために、早く脳死判定をする方針をとり、心臓死の時期を予測する目的をも有して二度にわたる脳死判定をしたものであるところ、竹内基準によって脳死という確定判断がなされたときには、救命治療を中止することは許されるが、被告Bらの行った脳死判定は、竹内基準によるものではなかったし、また、二八日にも、瞳孔散大が出現したのみで固定はしておらず、竹内基準に従っている他の病院では、そもそも、脳死判定に出す基準も満たしていない段階であり、その結果も脳波は平坦ではなかった。このように、瞳孔散大が出現しただけで、脳波も平坦でない状態で、脳死と判断して脳に対する治療をあきらめることは許されない。
(3) 被告病院は、医科大学の付属病院であって、先進的医療を担っているのであるから、救急センターにおいては、春子に対して、当時、脳損傷患者に対して行われていた低体温療法等の方法を採用して救命の努力をすべきであった。救急センターはこれをしなかったばかりか、クリッピング手術後、春子の体温を上げるため電気毛布で暖めたが、これは救命に反する行為である。
(二) 被告らの主張
(1) 春子は、本件クリッピング術前から、もはや手術自体が不可能ではないかと思われるほど重篤であり、更に、本件クリッピング術中に出血があり、本件クリッピング術後、深昏睡、自発呼吸なし、瞳孔散大、BSR反応なしという状態に至った。この時点で春子を死亡確実と判断するのは、医師として当然である。
春子をICUから出したのも、HCUにおいてもICUと同じ程度の治療が可能であり、かつ、ICUにおいては家族の面会が限られ、家族が付き添えないという不都合があるため、家族との接触時間を長くするという終末医療の主要な目的が達せられないからである。
(2) 春子の腎臓摘出は心停止後になされたものであるところ、心停止後に腎臓摘出を行う場合には、脳死時期がいつであるかの判断は必要ではない。確かに、竹内基準は社会的に容認されているが、この基準においては無呼吸テストの際に心停止に至る危険のあることも指摘されており、心停止後に腎臓摘出を予定している場合には、脳死をもって死とするわけではないから、竹内基準を満たす脳死判定を行わなければならないわけではない。
心停止後の腎臓移植が予定されている場合の脳死判断の意味は、患者の脳の障害の重傷度を評価すること、これによって、患者の状態が極めて重体であることが判明した場合には、家族に知らせることが臨床上重要であること、また、心停止後における腎臓提供との関係では、脳死判断は心停止後の腎臓提供の可能性を検討するスタートラインとなることや、家族への腎臓移植の説明等を円滑に行うことなどにあり、被告Bらもこれらの目的で脳波とBSRの検査を行ったのである。被告Bが、これによって、春子の死亡時期を予測したとしても、救命不可能で死亡に至ることが明かな患者に関してその死亡時期を予測することは、医師なら誰でも行う通常の行為であり、これを責められるいわれはない。
また、患者を救命不可能と判断した段階で新しい治療を追加しないのはやむを得ないことであるが、救急センターにおいては、終末医療に入ったからといって、心停止まで、人工呼吸器も外さずに、治療レベルも下げていない。
(3) 低体温療法の有効性は、当時はもとより、現在も確認されていない。
過去において、低体温療法が有効とされた事例は主として外傷事例であり、本件は外傷事例ではなく、脳動脈瘤の破裂症例である。しかも、低体温療法の施行には、モニターが不可欠であるとされているが、当時、ほとんどの病院がそのようなモニターを保有しておらず、被告病院も保有していなかった。
また、低体温療法は心肺機能にとって大きな侵襲となることは低体温療法を提唱した医師自身が指摘しているところであり、本件において、低体温療法を施行するのは危険そのものというほかない。本件において体温を電気毛布によって温めたのは、麻酔による手術後の患者に対する措置として妥当である。
(4) そもそも、移植を成功させるためには、死期を少しでも遅らせて腎機能を温存しなければならないのであり、腎機能を良くしようという試みは、死期を遅らせるための努力なのである。したがって、腎臓移植を優先して、春子に対する救命治療を放棄したという主張は誤っている。
3 被告Bは、春子の腎臓を早期に摘出するため、自ら、あるいは他の医師ないし看護婦に指示して、春子に対し、その延命を妨げる積極的措置を行ったか否か。
(一) 原告の主張
(1) 一〇月三一日の昇圧剤投与中止
① 春子は、一〇月二九日から三〇日の間、昇圧剤(イノバンとノルアドレナリン)の投与と輸液量の調整などにより尿量が維持されており、体内の循環状態は悪くなく、翌三一日も、尿量は一四四〇ミリリットルと通常の量で、血圧は午前から午後にかけて一〇六/五七(上が最高血圧であり、下が最低血圧である。以下同じ。)、一二六/六七、一一三/六二と推移し、概ね正常で悪くない状態であったのに、被告Bによる昇圧剤(イノバンとノルアドレナリン)の中止の結果、午後五時以降、春子は、急激に血圧が降下し、午後一〇時ころには、血圧が六七/二八となり、尿量も三時間で五ミリリットルと減少し、また、昇圧剤の投与が再開された翌日の一一月一日午前三時一五分まで一〇時間余も昇圧剤の投与がなされなかった結果、後記のとおり腎前性腎不全に陥った。ノルアドレナリンは、血管収縮作用を有するが、イノバンは、大量に投与しない限り、血流阻害の心配がなく、通常量以下であれば、腎血流量を増大させるものであるので、イノバンの投与を中止する必要はなかった。
② 被告Bが昇圧剤の投与を中止したのは、一〇月三一日午後五時に、春子の腎臓移植の準備が整ったためである。すなわち、前記のとおり、被告Bは、本件クリッピング術後早々に、春子を提供者としてその腎臓を移植することを計画し、春子が一〇月三一日に心停止に至ると予測した上で、移植コーディネーターにその旨連絡するとともに、原告及び夏夫に対し、移植のために春子の腎臓提供についての承諾の返事を一〇月三一日の午後五時までにしてほしいと要求し、家族による承諾が得られたため、直ちに昇圧剤の投与中止という早く死なせる処置をとったのである。
(2) 一一月二日の点滴量減量等
①イ 春子は、腎前性腎不全のため、一一月二日、尿量が、午前〇時から午前三時の間は六五ミリリットル、午前三時から午前五時の間が二ミリリットルと少なく、午前六時から午前九時の間は無尿であった。
人間には無尿の状態でも不感蒸泄量があり、不感蒸泄量は平熱で一日につき九〇〇ミリリットルであるが、体温が一度上昇すると一五パーセント増量となるところ、春子は、当時、三八度程度の熱を出していたので、少なくとも三〇パーセント増量となり、一日につき少なくとも一一七〇ミリリットルの水分は絶対的に必要である。
被告Bは、春子の生命の維持のためには、点滴量を少なくとも従前と同じ量にして、体内に必要な水分を投与することにより、体内の循環を改善し、尿を得ることが必要であったのに、点滴量を一日に一二〇ミリリットルに減量したわけであるから、循環状態を悪くすることは当然であり、これによって腎前性腎不全の改善などもたらしえない。
ロ また、被告Bらは、前記二4(八)(1)のとおり、一一月二日午前〇時一五分に、春子の人工呼吸器の酸素濃度を三〇パーセントにとどめているが、春子の酸素飽和度は、前日の一一月一日に一〇〇パーセントから九〇パーセントに降下したのであるから、春子の救命治療をするためには、酸素濃度が三〇パーセントでは足りず、これをもっと上昇させなければならないはずである。
被告Bらは、一一月二日、春子に対する昇圧剤の投与も中止すべきではなかった。
②イ 被告らは、被告Bが、春子に対する点滴量を減量した理由に関して、春子は、当時、うっ血状態にあり、その原因は腎性腎不全であったと主張する。
しかしながら、腎性腎不全であれば、そもそも腎臓移植の対象とならないはずであり、実際は、春子は腎前性腎不全であったのである。すなわち、前記のとおり、一〇月三一日の昇圧剤投与の中止は、春子の回復力を著しく阻害し、死亡こそさせなかったものの、急性の腎前性腎不全に陥らせた。腎機能が急激に低下し、体内に窒素代謝物が蓄積する症候群である急性腎不全には、腎臓自体の障害による腎性腎不全と、腎臓以外の原因で腎循環が障害される腎前性腎不全があるが、春子は、もともと腎機能に障害を持っていたわけではなく、腎前性腎不全に陥ったのである。
ロ また、被告は、点滴量の減量はうっ血性心不全を防止するためであると主張するが、うっ血性心不全の危険を判断する最も重要な中心静脈圧は、一一月二日には、正常であることからして、うっ血性心不全を示す危険性は存しない。
③ 被告Bが、右の各処置を行ったのは、春子の腎機能が悪化しないうちに心停止に持ち込み、移植を実行しようとしたためである。すなわち、腎機能の状態を示す最も重要な数値はクレアチニン値であり、腎臓移植に適合する数値は一デシリットルにつき2.5ミリグラム以下であるところ、一一月二日午前一〇時一二分の春子の検査の結果、そのクレアチニン値は一デシリットルにつき4.4ミリグラムであり、更に、再測定した午前一一時三一分には一デシリットルにつき4.9ミリグラムに上昇していた。一一月二日午前六時から九時まで、春子は無尿の状態にあるから、右の検査結果を待つまでもなく、被告Bには、当然にクレアチニン値が上昇していることは推測し得たはずであり、被告Bは、点滴量を減量し、春子の死期を早めて、腎機能が悪化しないうちに移植を実行しようとしたものである。
(二) 被告らの主張
(1) 一〇月三一日の昇圧剤投与中止について
① ノルアドレナリン、イノバンの投与は、いわば両刃の剣であり、体血圧を上げることによって、腎血流が増え、その結果尿が出るという効果が期待できる反面、腎血管に対しては収縮作用があり、この作用によって、尿が出なくなってしまうということもある。
被告Bらは、時々刻々春子の容態を観察していたところ、春子の尿量は午後五時前ころから目に見えて低下し始めた。従前から、水分を負荷しても、ラシックスを使用しても、ノルアドレナリンやイノバンを投与しても、春子には尿が得られなかったため、被告Bは、最後にもう一つの可能性の探求として、腎血流の回復と利尿を期待して一時ノルアドレナリン、イノバンの投与を中止してみたのである。
この点、原告は、ノルアドレナリンは、血管収縮作用を有するが、イノバンは、大量に投与しない限り、血流阻害の心配がなく、通常量以下であれば、腎血流量を増大させるものであるので、イノバンの投与を中止する必要はなかったと主張するが、イノバンが腎血管を拡張する作用があるとされているのは、イノバンのみが投与されている場合に関してであって、本件の場合は、従前からノルアドレナリンとイノバンを併用していたのであるから、腎血流を得るためにその両方を止めてみることは、最後の試みとして決して不自然なことではない。
② 結果的にも、一時期、体血圧が下がったものの、中止後即時に春子が心停止に至っていないこと、尿量の増加が見られたことにより、右試みは成功したといえる。また、被告Bが、その後、再度、昇圧による利尿の可能性を模索して、ノルアドレナリン、イノバンの投与を開始していることからしても、被告Bが、昇圧剤の中止により春子の心停止を目論んだものではないことは明らかである。死亡させる目的で中止したのであれば、再開する必要はないからである。
(2) 一一月二日の点滴量減量等について
① 無尿状態の患者については、その患者が脱水のために無尿になっていないか、患者の体液が十分量あるか否かの判定が必要であるが、春子の場合、一一月二日の朝まで十分な量の水分が投与されたこと、それにもかかわらず、尿が得られなかったこと、中心静脈圧が正常値であること、クレアチニン値などが悪く、腎臓の状態が悪いと考えられること、以上の理由から、脱水のための無尿状態ではないことが明らかであったので、被告Bは、春子が腎性腎不全によるうっ血状態にあるものと判断し、春子がうっ血性心不全で死亡するのを防ぐため、入口と出口の両方で治療効果を上げるために、点滴量を減量するとともに利尿剤のラシックスを投与したのである。
イ 同日午前〇時から午後〇時ころまでの一二時間の間に、春子の体内に現実に投与された水分の量は、本体の輸液が減量されたものの、その他に、イノバン、ノルアドレナリンの入った点滴も一時間当たり九ミリリットル、一〇〇ミリリットルの五パーセントブドウ糖やアルブミン、凍結血漿が投与されたので、約一六八〇ミリリットルであった。これに対し、排泄量は約六七ミリリットルであった。したがって、水分が過剰投与されていることは明らかである。
更に、アルブミン、凍結血漿等の蛋白製剤は、合計二一〇ミリリットルであるが、血管外の水分を血管内に取り込むので、輸液量としては二倍として計算するのが常識である。これを前提として、その他の本体の輸液や昇圧剤などを併せると、一一月二日午前九時ころから午後〇時ころまでの間には、水に換算すると、約五六〇ミリリットルの輸液がなされたことになり、水分を極端に減量したとはいえない。
このように、春子の一一月二日の点滴減量時の状態は、輸液が不足しているために尿が出ないというのではなくて、いくら輸液しても水分が血管の外へ漏れてしまうという状態であり、このまま輸液を続けても、肺水腫・心不全を引き起こし、死に至ることは必然であるから、被告Bは、輸液量を絞り、蛋白製剤を入れ、血管の外に漏れた水分を血管の中に引き入れ、利尿剤で対外へ出すという治療を行ったのである。
ロ 中心静脈圧が正常であるということは、体内水分量が十分であろうということで、うっ血状態ではないということとは異なる。すなわち、中心静脈圧は心房付近の中心静脈の圧を測定するものであるが、この圧とうっ血性心不全を評価する指標となる肺内の圧が異なるものである。
中心静脈圧によって判明するのは、これがマイナスであれば、体内水分量が少ないであろうということであり、二〇センチメートルを超えれば、体内水分量が多いであろうということのみであり、うっ血状態にあるかどうかまでは判断できない。体内がうっ血であるか脱水であるかは、中心静脈圧の他の多くの検査値、医学的所見、それまでの水分出納などを考慮して、初めて判定できるのである。
ハ クレアチニン値が悪いことからすれば、春子は腎性腎不全であった。
春子の腎臓は、確かに移植されたが、腎機能は、一時期、尿を生産できないほどに障害されても、機能が完全に廃絶したのでなければ、回復可能であり、いったん障害された腎臓が移植された場合、レシピエントの脳内の調節機能及び他の臓器機能が正常である場合には、その回復が早いことも知られている。したがって、提供者の腎機能が障害されていても、提供は可能であり、腎性腎不全に陥った患者の腎臓を提供することは、何ら不自然ではない。
春子の腎臓を移植した後、レシピエントにはしばらく利尿がなかったが、一一月二二日ころから利尿が認められており、春子の腎不全が腎前性のものであれば、移植後直ちに利尿が得られたはずである。
② 酸素濃度を一〇〇パーセントにすべきであるという主張についても失当である。投与酸素濃度が一〇〇パーセントであれば、人体が快適であるということはなく、むしろ、酸素毒となる場合もある。本件では、酸素濃度を一〇〇パーセントにすることは死期を早めることにつながった。
また、イノバンとノルアドレナリンは、春子の死亡直前まで、投与が継続された。
③ また、原告は、腎臓を保護して、春子の死期を早めたと主張するが、そもそも移植を成功させるためであれば、死期を少しでも遅らせて、腎機能を温存しなければならないのであり、腎機能をよくしようという試みは、死期を遅らせるための努力なのであり、原告の主張は失当である。
なお、クレアチニン値に関しても、現在では八までは移植可能であるので、クレアチニン値が悪くなったからといって、被告らが春子を心停止に持ち込むための措置をとることはない。
4 本件カテーテル挿入行為は違法な行為であるといえるか否か。
(一) 原告の主張
被告Bは、「緊急を要し、心臓が止まってからでは遅いので、腎臓を洗う手術をする。」と言って、春子を手術室の中に入れ、家族を外に出した上、本件カテーテル挿入行為を行った。その際、被告Bは、これが移植のための措置であることを家族に説明せず、また、このような措置をとることについての家族の承諾も得なかった。
患者が生きている間に、治療以外の目的で、生体の手術をするのは傷害に該当する違法な行為である。このような行為は、家族に説明がなされ、その承諾が得られたとしても、家族には傷害行為を承諾する権限はないので、違法であるが、家族に説明もなくなされることは、極めて違法性が強いといわざるを得ない。
(二) 被告らの主張
(1) 被告Bは、本件カテーテル挿入行為を行うに先立ち、夏夫に対し、その意味を十分説明し、夏夫からこれを行う承諾を得て、ベッドサイドでこれを実施した。
(2) 本件カテーテル挿入行為が右のとおり夏夫の承諾を得てなされたものであることに加えて、本件カテーテル挿入行為は、春子の病状やその余後に何ら悪影響を及ぼすものではないこと、心停止前にドナーにカテーテルを挿入する目的は、腎臓提供、移植の成功というドナー及びその家族の善意を全うすることにあり、心停止後の腎臓摘出を行っている医療機関においては、一般的に行われているものであって、やむを得ない措置であることに鑑みると、被告Bが本件カテーテル挿入行為を行ったことが違法であるとはいえない。
5 血管チームが行った春子の血管組織の摘出は、被告Bが指示して行わせたものであるか否か。指示していた場合、被告Bの行為は違法であるといえるか否か。
(一) 原告の主張
血管チームが、前記二4(八)(2)のとおり、春子の血管組織を摘出したのは、被告Bが、血管チームに対し、そうするよう明示もしくは黙示に指示したためである。
被告Bの右行為は死体損壊に該当する違法な行為である。
(二) 被告らの主張
(1) 被告Bは、血管チームに対し、春子の血管組織の摘出を指示したり、要請したりしたことはない。また、被告Bは、大阪腎臓バンク所属の移植コーディネーターに対し、腎臓提供の可能な患者がいるとは連絡したが、その他の臓器等についても提供可能であると連絡したことはない。
(2) 春子について摘出された血管の範囲は、これを摘出した医師によると、腎臓周囲血管であり、移植のための腎臓摘出の際の一般的な摘出部分を越えるものではなかった。したがって、仮に、被告Bが指示又は要請していたとしても違法であるとはいえない。
6 春子の被った損害及び原告の被った固有の損害はいくらとみるべきか。
(一) 原告の主張
(1)① 春子は、救命のための治療を放棄し、かつ、本件カテーテル挿入行為や延命を妨げる積極的処置を行った被告Bの不法行為により、多大な精神的苦痛を被ったが、これを慰謝するには三〇〇〇万円をもってするのが相当である。
② 原告は、春子の被告ら各自に対する右三〇〇〇万円の慰謝料請求権の六分の一(原告の相続分の割合)を相続した。
(2) 原告は、右(1)①の不法行為や春子の腎臓をその家族に無断で摘出させた被告Bの不法行為により、固有の精神的苦痛を被ったが、これを慰謝するには四〇〇万円でもってするのが相当である。したがって、原告は、民法七一一条の適用ないし準用により、被告ら各自に対し、四〇〇万円の慰謝料請求権を有する。
(3) 原告は、春子の血管組織摘出に関する被告Bの不法行為により、精神的苦痛を被ったが、これを慰謝するには四五〇万円でもってするのが相当である。したがって、原告は、被告ら各自に対し、四五〇万円の慰謝料請求権を有する。
(4) 原告は、本件訴訟の追行を弁護士に依頼し、そのために一五〇万円を費やした。この一五〇万円の弁護士費用も、被告Bの不法行為と相当因果関係がある原告の損害である。
(5) 以上によると、原告は、被告ら各自に対し、合計一五〇〇万円の損害賠償請求権を有している。
(二) 被告らの主張
損害に関する原告の主張は、すべて争う。
第三 当裁判所の判断
一 争点1について
1 前記第二の二の事実(特に4(二)ないし(五)の事実)に証拠(甲二の1、2、七の1ないし5、八の1ないし6、二〇、乙二、証人夏夫、証人C、原告本人、被告B本人)を総合すると、夏夫は、春子が救急センターに入院した後、ほぼ常時春子に付き添っていたが、原告は、見舞客の応対をしていたことなどもあって、必ずしも終始付き添っていたわけではなく、医師による春子の病状に関する説明は、夏夫に対してなされることが多かったこと、Cは、春子の瞳孔が全開大の状態となったため(一〇月二七日午後六時ころ)、春子は脳死に近い状態であって、死亡することはほぼ確実であろうと判断し、春子を家族がその手を握ることもできないICUから、家族と一緒に過ごすことのできるHCU(一般の病室と異なり、ICUと同程度の治療が可能である。)に移すこととしたこと、Cは、一〇月二八日、春子をHCUに移すに際し、夏夫に対し、春子の瞳孔は開いており、救命することは極めて困難な状態にある旨を説明したこと、Cは、被告Bからの依頼を受けて、春子がICUからHCUに移された後の一〇月二八日と翌二九日に、夏夫に対し、春子の腎臓を移植のために提供する意思があるかどうかを尋ねたこと、夏夫は、当初、自分の腎臓を春子に移植することと勘違いして承諾する旨答えたが、その後、間もなく、移植のために春子の腎臓を提供することであると理解した上で、Cに対し、承諾する旨返答した上、春子が、従前、移植のために自分の腎臓を提供する意思がある旨話していたことを告げたこと、Cは、夏夫に対し、家族の他の者が反対することもあるので、家族とも相談するよう要請したこと、被告Bは、一〇月三〇日の午前中、Cと一緒に、原告及び夏夫に対し、移植のための腎臓の提供に関する説明をした上、春子は看護婦であったので、腎透析患者に理解があったと考えられることや春子が従前腎臓を提供する意思があることを夏夫に話していたことを尊重したいことを理由として、腎臓の提供につき承諾するよう依頼したこと、被告Bは、この時、原告及び夏夫に対して、その場での返答を求めず、また、原告及び夏夫も、明確な意思表示はしなかったこと、被告Bは、夏夫はそれ以前にCに対し承諾する旨返答していることや原告からも承諾に反対する意向は特に示されなかったことから、春子の家族から春子の腎臓を提供することについての承諾書の提出を受けられるものと考え、同日の正午過ぎころ、大阪腎臓バンクの移植コーディネーターに対し、腎臓提供が可能かもしれないドナーのいることを連絡したこと、原告は、一〇月三一日の朝、被告Bあるいは救急センターの看護婦から承諾書の提出を促され、春子の腎臓を提供することについて夏夫と相談し(夏夫は、腎臓を提供することを承諾する旨の意見を述べた。)、かつ、電話で春子の父(原告とは昭和六三年七月に協議離婚していた。)の意見(当初反対の意向を示したが、最終的には原告に一任した。)を聞いた上、同日午後三時ころ、本件承諾書に署名してこれを救急センターに提出したことを認めることができる。
右認定事実によると、被告Bが、春子の遺族である原告から、春子の腎臓提供につき書面による承諾を得たことは明らかであるといえる。
2 原告は、前記争点1(二)のとおり主張するが、被告Bは、春子の家族に対して、春子の腎臓の提供につき承諾することを依頼する立場にあり、右承諾は被告Bが春子の家族に強要して得られる性質のものではないこと、春子の腎臓提供につき承諾するか否かを考える時間的余裕がなかったのであれば、原告において承諾を拒絶することも容易にできたはずであることに鑑みると、右主張は採用できない。
二 争点2について
1(一) 前記第二の二4(二)、(三)のとおり、Cは、一〇月二七日午後六時ころには、春子が脳死に近い状態であって、死亡することはほぼ確実であろうと判断し、救急センターの医師及び看護婦らも、春子をDNR患者であると把握したものであり、Cらは、翌二八日に春子をICUからHCUに移したものであるところ、証拠(証人C、証人D、被告B本人)によると、DNRとは、本来、心停止が来ても人工呼吸器やマッサージなどによる蘇生のための努力をしないという意味(do not resuscitate orderの略語である。)であること、しかし、脳外科医や看護婦らは、瞳孔が開いてしまい救命の望みがないという意味で用いていたこと、救急センターにおいてもDNRが右の意味で常用されていたことを認めることができる。
(二) しかしながら、前記第二の二2(二)、3の事実に証拠(甲二の1、2、証人C)を総合すると、Cらは、当初手術ができないほどであった春子の容態が若干改善したため、春子に対し、少しでも可能性があれば手術をするというCの方針に基づき、本件クリッピング術に踏み切ったこと、本件クリッピング術自体は成功したが、春子の頭内で大量の出血があったことを認めることができ、また、本件クリッピング術後の春子の容態の推移は前記第二の二4(二)のとおりであるところ、本件クリッピング術がなされるに至った経緯やその後の春子の容態の推移に鑑みると、Cや救急センターの他の医師が、右(一)のとおり、一〇月二七日午後六時ころに、春子が脳死に近い状態であって、死亡することはほぼ確実であろうと判断したことに、医学的にみて不相当な点があるとはいえない。
2(一) しかも、証拠(甲二の1、2、証人C、証人D、被告B本人)によると、春子に対し、一〇月二八日の午前中、五パーセントの濃度のブドウ糖液が継続して投与されたほか、脳代謝賦活剤であるルシドリール、ビタミン剤、止血剤であるアドナ、トランサミン及びカルチコール、インシュリン、更に、血管内凝固症候群の治療薬であるメシル酸ガベキサート、ノルアドレナリン、脳圧降下剤であるグリセオール、抗生物質のフルマリン、昇圧剤のエホチール、脳の保護剤であるフェノバールが投与されたこと、同日午後には、脳の保護剤であるタチオン、代謝賦活剤であるATP、肝臓の保護剤であるSMCが投与されたが、前日投与されていたグリセオール及びフェノバールの投与は中止されたこと、これらの薬は患者の血圧が安定している間にしか使えないところ、春子の血圧は一〇月二八日から下がり始めたこと、一〇月二九日には、輸液のソルデムの他、ATP、SMC、脳代謝改善剤であるニコリン、タチオンが投与され、同日午後一〇時三〇分には、被告Bの指示で、利尿剤であるラシックスが投与されたこと、一〇月三〇日の春子に対する投薬治療は、前日とほぼ同様であったが、PPF、いわゆるプラズマネートが投与されたこと、また、同日、午前二時ころから午後九時過ぎまでの間に、四回にわたってラシックスが投与されたこと、ルシドリール、ニコリン及びラシックスには、脳の代謝や循環を改善し、脳浮腫に対する治療の効果があること、一〇月三一日の春子に対する投薬治療も、前日とほぼ同様であったが、新たにFFP二単位及びアルブミン一バイアルが投与されたこと、一一月二日の春子に対する投薬治療も前日とほぼ同様であったこと、投薬治療の他に、人工呼吸器による呼吸管理やバイタルサインのチェック等も行われていたことを認めることができるのであって、右認定事実によると、被告BやCらは、春子に対し、脳浮腫に対する治療も含め、救命を目的とする従前の治療と同程度の治療を続けたことを肯認することができる。
(二) C及び被告Bが、脳死判定の検査として、春子に対するBSR及び脳波の検査を依頼して行ったことは、前記第二の二4(三)、(四)(2)のとおりであるところ、証拠〔甲二の1、一三ないし一六、二四、二五、乙一二、証人C、証人M、証人K(以下「K」という。)、被告B本人〕によると、救急センターにおいては、脳死判定をした上、脳死者から腎臓の提供を受けることはなく、必ず心停止したドナーから提供を受けることになっていたこと、被告Bは、心停止後に腎臓を移植する場合、成功するためには、心停止時期を予測することが大切であると考えていたこと、救急センターにおいては、春子に対し、竹内基準のうち、無呼吸テストを実施しなかったこと、また、脳幹に関して、対光反射、瞬目反射、すなわち角膜反射、毛様脊髄反射の検査を行ったが、竹内基準のその他の検査を行わず、他方、竹内基準にはないBSRの検査を行ったこと、無呼吸テストは、数分間人工呼吸器を外して、自発呼吸の有無を調べるテストであるので、自発呼吸のない患者に対しては、テストによって心停止に追い込むなどの危険性がある場合があること、BSRの検査は、施行が簡単で安全に行える上、かつ、客観的なグラフとしてデータが表示されるという長所があること、このため、救急センターにおいては、患者の脳の状態を調べる場合に、ほぼ全例においてBSRの検査を用いていたことを認めることができる。
右事実を総合すると、被告BやCには、前記脳死判定としての検査を依頼して行うに際し、春子を脳死者として取り扱うために右検査をする意図はなく、春子の脳の状況を検査し、その心停止の時期を予測する等のために、右検査を依頼したものであると認められるから、右検査は、竹内基準によることが要請されるものであるとはいえない。そして、たとえ被告BやCが、右検査をする目的の一つに、右検査結果を春子から腎臓の提供を受けることができるようになった場合に役立てようという意図があったとしても、それによって、被告BやCが右検査をしたことが違法であるとも、不相当であるともいえない。
3 前記第二の二5(三)のとおり、平成五年ころにまでには脳低温療法が一部の医療機関で行われるようになり、Cも、平成五年一〇月当時、そのことを知っていたものである。しかしながら、証拠(甲二五、二八、乙七、一二、一五、証人C、証人D、証人M)に弁論の全趣旨を総合すると、右療法は、提唱者においても、頭部外傷患者を中心とした療法であるとされていること、脳温を低温に維持すべく、体温を低温に保った場合、心肺機能や免疫防御系にとっては大きな侵襲となる危険性を有すること、したがって、仮に脳低温療法を実施するとすると、右危険性を回避すべく、常に患者の状態を把握するためのモニター等の設備が必要であること、当時、救急センターには、そのようなモニター等の設備が整っていなかったことを認めることができ、この事実に照らすと、Cら救急センターの医師が、春子に対し、当時、脳低温療法を実施すべきであったということはできない。
また、証拠(乙七、一一、証人C、証人D)によると、Cは、本件クリッピング術後、春子に対し、脳室ドレナージや、低体温療法と同じ考え方に基づくが、体温を冷やす効果はないバルビタール昏睡療法を行ったこと、一般に、手術後、患者の体温は下がるので、復温が重要だとされていることを認めることができ、看護婦が、本件クリッピング術後、春子を電気毛布で暖めたことが妥当な措置ではなかったということもできない。
4 以上検討してきたところによると、被告Bが、春子の腎臓を移植のために提供させる方針を早期に決定し、自らあるいは他の医師らに指示して、春子に対する救命のために必要な治療を放棄したことを認めることは到底できない。
三 争点3について
1 一〇月三一日の昇圧剤の投与中止について
(一) 前記第二の二4(六)(2)のとおり、被告Bは、一〇月三一日午後五時ころ、春子に対するイノバンとノルアドレナリンの投与を中止したものであるところ、原告は、右措置は被告Bが春子を早く死なせるために採ったものである旨主張するが、原告の右主張事実を認めるに足りる証拠はない。
(二) かえって、前記第二の二4(六)(1)の事実と証拠(甲二の1、2、六、九ないし一二、二五、乙一の1ないし7、一二、証人D、証人M、証人K、被告B本人)に弁論の全趣旨を総合すると、ノルアドレナリンには、昇圧作用があり、一般に、腎臓内の血管を収縮させて血圧を上げる効果があるが、同時に末梢血管をも収縮させるので、腎臓内の血管を収縮させることによって腎臓の働きを悪くするという副作用を有していること、イノバンは、昇圧作用を有するが、腎血流を増加させる作用をも有し、無尿ないし乏尿の際に利尿を目的として用いられること、イノバンは、一分間に体重一キログラム当たり一ないし五マイクログラムを点滴注射し、場合によっては、二〇マイクログラムまで増量させてもよいとされていること、ノルアドレナリンは、一分間に二〇マイクログラムから四〇マイクログラムの量を点滴注射するものとされていること、PPF、FFP及びアルブミンは、生体の免疫機能を上げる効果があるほか、血管外に流出した水分を血管内に引き戻し、その結果、循環血液量が増加する効果があること、一〇月二七日から三一日に投与が中止されるまでの間、春子には、一分間につき体重一キログラム当たり3.47マイクログラムと平均的な使用量のイノバンが投与されていたこと、一〇月二七日から三一日に中止されるまでの春子に対するノルアドレナリンの投与量は、一分間につき一〇マイクログラムと比較的少量であったこと、通常、成人の一日の尿量は一〇〇〇ミリリットルから一五〇〇ミリリットルであること、脳の手術後には、抗利尿ホルモンの欠乏により、尿が体外へ大量に流出してしまう尿崩症になりやすいこと、春子の尿量は、一〇月二六日に五五九〇ミリリットル、二七日に九六一〇ミリリットル、二八日に四五三〇ミリリットルであり、春子は、一〇月二六日の手術後、尿崩症に陥っていたこと、一〇月二九日の春子の尿の流出量には変動があり、午後三時から午後六時の間には、二〇ミリリットルであったため、ラシックスを投与したところ、その後、三六〇ミリリットルの流出が見られたこと、また、一〇月三〇日も、午前〇時から午前二時の間は無尿であり、ラシックスの投与によって利尿が見られ、午前八時に再度ラシックスを投与したが、直後には尿の流出がなかったこと、午前六時から午前九時までの間は、六〇〇ミリリットルの流出が認められたこと、その後、午後一時からPPFを投与したが、尿の流出が見られず、午後二時三〇分ころ、再度、PPFを投与するとともに、ラシックスを投与することによって、尿量が午後三時から午後六時までの間に九〇〇ミリリットルと増加したこと、午後九時の段階でも尿の流出が不良であったので、ラシックスを投与したこと、一〇月三一日午前中の春子の尿量は、三時間につき最大で七五〇ミリリットルの流出が認められたが、少ないときには三時間で五〇ミリリットルと変動し、午後三時の時点でも尿の流出が不良であったため、PPF、FFP及びアルブミンを投与する一方、ラシックスを投与したこと、午後三時から午後六時までの尿量は一三五ミリリットルであったこと、午後五時前ころから、春子の尿量が急激に減少してきたため、被告Bは、腎血管を収縮させるという副作用を外して、春子の腎血流量を増やし、体内の循環状態を改善する目的で、比較的少量ではあるが二七日から継続されていたノルアドレナリンの投与を中止し、その際、イノバンも、これは少量ではかえって腎血流量を増やす効果があるが、ノルアドレナリンとともに二七日から併用されており、かつ、投与が数日間継続されていることなども考慮して、腎血管に対する収縮作用を取り除くことを目的として中止したこと、その後春子の午後六時から午後九時までの尿量は五ミリリットルであったが、午後九時から一一月一日の午前〇時までの間は二一〇ミリリットルとなったこと、一一月一日の午前〇時から午前三時までの尿量は五ミリリットルであったこと、一〇月三一日午後九時ころにも、ラシックスが投与されていること、Bは、一一月一日午前三時一五分ころにはイノバン及びノルアドレナリンの投与を再開したこと(前記第二の二4(七))、午前三時過ぎころ、PPFが投与されたこと、イノバンとノルアドレナリンの投与が中止されていた間においてもその他の薬の投与や呼吸管理などの治療は従前と同様に続けられていることを認めることができる。
右認定事実によると、被告Bが、イノバンとノルアドレナリンの投与を一時中止したことには、合理的な理由があるといえる上、被告Bは、投与を一時中止したが、その後その投与を再開していることや、イノバンとノルアドレナリンの投与が中止されていた間においてもその他の薬の投与や呼吸管理などの治療は従前と同様に続けられていることからしても、右投与の一時中止が、春子を早く死なせるために採られた措置であるとは考えられない。
2 一一月二日の点滴量の減量等について
(一) 前記第二の二4(八)(1)のとおり、被告Bは、一一月二日午前九時一五分、春子に対して点滴する輸液の量を一時間につき五ミリリットルに減量する旨指示したものであるところ、原告は、右措置は被告Bが春子を早く死なせるために採ったものである旨主張するが、原告の右主張事実を認めるに足りる証拠はない。
(二) かえって、前記第二の二4(八)(1)の事実と証拠(甲三、四、六、一七、二五、証人D、証人M、証人K、被告B本人)に弁論の全趣旨を総合すると、急性腎不全に陥った場合、一日の尿量が四〇〇ミリリットル以下(一時間につき一七ミリリットル以下)に低下すること、場合によっては、乏尿ではなく、尿量過多を伴うこと、腎不全には、腎前性腎不全(腎循環不全)と腎性腎不全(腎実質の病変)とがあるが、腎循環不全は、腎の虚血に起因する急性の乏尿ないし無尿であり、臨床経過は比較的短く、可逆的であるが、是正されない場合には、腎性腎不全に進行すること、人間には無尿の状態でも不感蒸泄があり、不感蒸泄量は、平熱で一日につき九〇〇ミリリットルであるが、体温が一度上昇するごとに一五パーセントずつ増加すること、PPF、FFP及びアルブミンは、五パーセントの濃度のブドウ糖液等と比較すると浸透圧が高く、血管内に投与されると、血管外に漏れ出している水を血管内に引き戻す働きがあること、したがって、これらを輸液した場合、現実の輸液量の二倍の量の循環血液量の増加を期待できること、一一月二日の午前〇時から午前三時までの春子の尿量は六五ミリリットルであったこと、春子には、午前三時にラシックスが投与されたが、午前三時から午前五時までの尿量は二ミリリットルであったこと、午前五時にもラシックスが投与され、午前九時、午前一〇時、午後二時三〇分及び午後四時にラシックスが二アンプルずつ投与されたが、午前五時から死亡するまでの間、無尿であったこと、中心静脈圧は、午前五時に三、午前六時に2.5、午前九時に五、午後〇時に六であり、いずれも正常値ではあるが、上昇していること、午前一〇時一二分の検査データによると、春子のトータル・プロテインは5.7、アルブミンが2.7で、通常より低い値であり、体内の栄養状態が悪いといえること、体内の栄養状態が悪いままである場合、浮腫が進行する危険性があること、春子には、一一月二日の午前〇時から午前四時一五分ころまで前日の午後九時一五分に更新された本体の点滴、すなわちソルデム五〇〇ミリリットル(ATP、SMC、インシュリンを含む。)の残量の約二五〇ミリリットル、午前四時一五分ころから午前九時一五分ころまでは本体の点滴、すなわち五パーセントの濃度のブドウ糖液(ルシドリール、ビタミン剤、インシュリンを含む。)五〇〇ミリリットル、午前六時三五分ころから午前九時三五分ころまでには、臨時にソルラクト五〇〇ミリリットル、午前九時ころから午前一〇時ころまで抗生剤フルマリン二グラムを溶解した五パーセントブドウ糖一〇〇ミリリットル、午前一〇時ころから午前一一時ころまで、凍結血漿二単位で計一六〇ミリリットル、アルブミン五〇ミリリットル、午前九時一五分ころから午後〇時ころまで、輸液が合計約一五ミリリットル、午前〇時から午後〇時ころまでに、イノバンを溶解した五パーセントブドウ糖約三六ミリリットル(一時間当たり三ミリリットル)とノルアドレナリンを溶解した五パーセント濃度のブドウ糖約七二ミリリットル(一時間当たり六ミリリットル)とが投与されたこと(この二種類のブドウ糖は、午後〇時以降も引き続き投与された。)、被告Bが点滴する輸液の量を減量することとしたのは、減量しなければ、春子が腎性腎不全を原因としてうっ血状態に陥り、その結果心不全を起こすことを危惧したためであること、春子のクレアチニン値は、一一月二日午前一〇時一二分に一デシリットルにつき4.4ミリグラムであり、午前一一時三一分には一デシリットルにつき4.9ミリグラムであったこと、体温は、午前七時四〇分の時点で、四〇度であったこと、一一月二日の時点で、春子の顔には浮腫はなかったこと、ドナーの腎機能が維持されていた場合のレシピエントの利尿は、術後直ちに得られること、レシピエントに透析が必要なくなるのは、平均すれば移植後一〇日から一四日であること、春子の腎臓の提供を受けたレシピエントに利尿があったのは、一人は一一月一四日(術後一二日目)、他の一人は、一日の尿量が一〇〇ミリリットルを超えたのが一一月一四日で、一日の尿量が一〇〇〇ミリリットルを超えたのが一一月二六日(術後二六日目)で、一二月三日まで透析が必要であったことを認めることができる。
右認定事実によると、春子には、点滴する輸液の量を減らしても、一一月二日には生存に必要な水分が投与されていたといえるし(春子は、同日午前〇時から午後〇時までの一二時間で、尿量が六七ミリリットルであり、他方、その間、現実に投与された水分の量が約一六八三ミリリットルであったこと、また、午前九時から午後〇時までの間に限っても、尿量は〇ミリリットルで、現実に投与された水分の量は三五二ミリリットルであり、更に、PPF、FFP及びアルブミンを二倍にして計算すると水分として五六二ミリリットルが投与されたことになるが、不感蒸泄量は、体温が四〇度であることを前提としても前記計算式によると三時間で一八〇ミリリットルである。)、また、春子は、一一月二日の時点では腎性腎不全であると考えられる(春子のクレアチニン値が高いこと、同日、ラシックスをしばしば投与しているにもかかわらず、春子は午前五時以降無尿であったこと、実際にレシピエントに尿が得られたのが、平均的な時期よりも相当程度遅かったことなどからすれば、春子の腎機能は悪化しており、当初は腎前性腎不全であったとしても、一一月二日の時点では腎性腎不全であったと考えるのが相当である。)ことからすると、被告Bが、春子がうっ血状態に至ることを懸念して点滴する輸液の量を減らしたことには、合理的な理由があるといえる。
(三) 証拠(甲二の1、2、被告B本人)に弁論の全趣旨を総合すると、春子の酸素飽和度は、一一月一日に一〇〇パーセントから九〇パーセントに降下したこと、人工呼吸器の酸素濃度は、手術後間もなくから、二八パーセントに保たれていたが、被告Bは、右降下に対応するため、一一月二日午前〇時一五分にこれを三〇パーセントに上げたことを認めることができるところ、原告は、春子の救命治療のためには右酸素濃度をもっと上昇させるべきであった旨主張する。しかしながら、右主張事実を認めるに足りる証拠はない。また、原告は、被告Bらが一一月二日に春子に対する昇圧剤の投与を中止したことを前提として、これをすべきでなかった旨主張するが、右(二)で認定したとおり、被告Bらは、春子に対して、一一月二日にも、イノバンを溶解した五パーセントブドウ糖約三六ミリリットル(一時間当たり三ミリリットル)とノルアドレナリンを溶解した五パーセント濃度のブドウ糖約七二ミリリットル(一時間当たり六ミリリットル)の投与を継続しているのであるから、右主張はその前提を欠き失当である。
四 争点4について
1 生存している患者の身体を傷つける医師の行為は、その行為が当該患者に対する治療行為として必要なものである場合には、正当な業務行為として違法性がないといえるが、それ以外の場合には、患者本人のその行為を承認する確定的な意思の表示があり、かつ、患者本人の右承認意思の表示があれば、右行為が社会的に許容されるといえるものであることなどの違法性を阻却する特段の事由が存在しない限り、違法であるといわざるを得ない。
2 被告Bのした本件カテーテル挿入行為は、春子の大腿部を切開して灌流液注入用のカテーテルを挿入するものであって、春子の身体を傷つける行為であるといえるところ、被告Bは、本件カテーテル挿入行為を、春子の心停止後、その腎臓が悪化するのを防ぐための措置として行ったものであって、春子の救命のための治療行為として行ったものではないことは明らかである。
3 そこで、被告Bのした本件カテーテル挿入行為に違法性を阻却する特段の事由が存在するといえるか否かにつき検討する。
(一) 証拠(乙一二、証人C、証人K、被告B本人)によると、ドナーの生存中に、灌流液注入用のカテーテルをドナーに挿入しておいて、心停止後、直ちに灌流液を流さなければ、腎臓が温阻血により悪化し、移植に適さない状態になる可能性が大きいこと、そのため、右カテーテル挿入行為は腎臓移植を成功させるために有益な行為であるといえること、カテーテルを挿入する行為は、患者の延命にほとんど悪影響を及ぼすものではないことを認めることができ、右事実によると、ドナーが生存中であっても、その心停止が間近に迫った時期に、腎臓移植をする目的で灌流液注入用のカテーテルをドナーに挿入する行為は、ドナー本人の右行為を承認する確定的な意思の表示が前もってなされていたのであれば、社会的に許容される行為であるということができる。そうすると、被告Bのした本件カテーテル挿入行為も、春子のこれを承認する確定的な意思の表示があれば、違法性がないといえることになるが、春子が、本件カテーテル挿入行為を承認する旨の確定的な意思を表示していたことについての主張、立証はない〔証拠(夏夫)によると、春子は、夏夫に対し、腎臓を移植のために提供する意思がある旨話していたことを認めることができるが、これを本件カテーテル挿入行為を承認する旨の確定的な意思の表示とみることはできない。〕。
(二) 被告らは、春子の夫である夏夫から本件カテーテル挿入行為を行うことにつき承諾を得た旨主張するが、生存中の患者の身体を傷つける治療行為とはいえない行為につき、その患者の夫が承認をすることのできる法的根拠を見出すことはできない。仮に、夫である夏夫が本件カテーテル挿入行為を行うことにつき承諾していれば、右行為の違法性が阻却されると解することができるとしても、被告Bが、本件カテーテル挿入行為を行うに先立ち、夏夫に対し、本件カテーテル挿入行為が春子に対する治療としてなされるものではなく、心停止後の腎臓の悪化を防ぐために行う必要があるものであることを説明して、夏夫から、本件カテーテル挿入行為を行うことについて承諾を得たことは、本件全証拠によってもこれを認めるに足りない〔右被告らの主張事実に沿う被告B本人の供述は、他の証拠(甲二〇、証人夏夫、原告本人)に照らして信用することができない。〕。
(三) 被告らは、心停止前のカテーテルの挿入行為は、その目的が患者やその家族の善意を全うすることにあり、心停止後の腎臓摘出を行っている医療機関においては、一般的に行われているので、本件カテーテル挿入行為も許容されるべきである旨主張するが、右事由が違法性を阻却する事由に当たるとは認め難い。他に被告Bのした本件カテーテル挿入行為の違法性を阻却する特段の事由についての主張、立証はない。
五 争点5について
被告Bが、血管チームに対し、春子の血管組織を摘出するよう明示又は黙示に指示したことを認めるに足りる証拠はない。
六 争点6について
前記四で判示したとおり、被告Bの本件カテーテル挿入行為は、春子に対する不法行為といえるところ、これによって春子の被った精神的苦痛を慰謝するには、本件に顕れた一切の事情(特に本件カテーテル挿入行為の目的、それが春子に与える影響、本件カテーテル挿入行為がされた時期、その当時の春子の容態、春子が腎臓提供について有していた意向等)に鑑みると九〇万円をもってするのが相当である。そうすると、春子は、被告ら各自に対し、九〇万円の損害賠償請求権を取得したといえるので、原告(相続分六分の一)は、春子の死亡により、一五万円の損害賠償請求権を相続取得したことになる。また、本件訴訟の内容、経緯、認容額等に鑑みると、右不法行為と相当因果関係にある弁護士費用は五万円とみるのが相当である。なお、本件カテーテル挿入行為は、春子に対する生命侵害行為であるとはいえないから、原告は、これを自己に対する不法行為として、被告らに対し、損害賠償請求をすることはできない。
七 結論
以上によると、原告の請求は、被告ら各自に対し、損害二〇万円及びこれに対する不法行為(本件カテーテル挿入行為)の後である平成五年一一月二日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるので、この限度で認容し(被告らの債務は不真正連帯債務である。)、その余は失当として棄却すべきである。よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官谷口幸博 裁判官大野正男 裁判官武田瑞佳)